ランデヴー

音楽と俳優さんとアイドルと

担当制度についての考察

自分の受けてる授業の中に、ある教科があるんだけれどレポートのテーマは何でもよいとのことだったので、ジャニオタの中に存在する担当という制度や担降りという制度について自分を例に考察してみた。つまりレポートの草案を書きなぐるというわけ。

担当とは

○○担当ですと自己紹介するときに何を基準にしているのだろうか?私の場合この人のファンですというのと変わらない意味で今までずっと使っていたのだけれど、少し違う気がしている。たとえば、同時に別の人のファンである時は掛け持ちと表現するわけだけど、逆に言えば掛け持ちしていない人はほかの何も好きではないとはっきり断言できるのであろうか。もちろんいろんな人はいるだろうが、少なくとも私の場合はあり得ない。○○クンが好きで○○クン担当であっても、違うアーティストが好きだったりほかのアーティストやアイドルの曲を好き好んで聞くこともある。

こう考えると、ただのファンを名乗るときに担当という言葉は使わない、という結論になる。ではどういうときに使うのだろう。自らの場合を考察してみてほしいんだけれど、一定の金額*1を一人の人や一つのグループにかけたとき、または、自発的にこのグループのこの人が見たいからという理由でコンサートチケットを入手しようとするときなのではないか。実際、私の場合は、横山くんの担当をいまだに名乗っているのはこれが理由だ。

また、CDやDVDを買う場合、私や周りにいる自分をジャニオタだと自称している人は、できばえに関係なく担当しているグループのCDが出れば予約をして購入する人が多い。この行為もファンと担当の大きな違いだと思うのだが、出来栄えに関係なく購入することはその作品にお金を出して手に入れるというよりも、自分の担当している一定のグループや一定の人物に対して出資していると考えたほうが正しい。

つまり、ある人やあるグループに対して一定の金額出資しているということを前提でその人のファンである場合のみ担当という言葉を使い自分を表現するのだ。

こんな感じでレポートまとめようかな。出資って大きい。だから担降りもわざわざ言うんかなと私は思うわけだけどどうなんだろう。誰が何を好きでもいいじゃない派だから寂しいと思うことは少なからずあるけど、その人との関係が終わってしまうわけでもないから何とも思わないかな…なんて。私の周りの人もそうだといいなと思うばかり。よく自分みたいなDDと仲良くしてくれるな~なんてよく思うわけです。もし私が横山君を好きでなかったら今までに出会った素敵な人たちとは何のかかわりもなかったかもしれないと思うと、ほんとに横山君には感謝の念しかありません。

シングル予約してない。買わねば…こうやって私はいつまでも担降りができないのだ…とほほ

*1:これは本当に人それぞれだと思うからあえて明言はしない